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劇評 夢腐論「聖夜壊」

注意:以下の論評は劇評の専門家でも何でもない人騒がせな変人藤岡が主観で呟く独り言です。 「違う」と思った場合、「頭のアレな人の言っていることだから」で通過して下さい。 意味合いは基本的に称賛です。悪しからず。

聖夜の夢腐論

壁・床・天井が真黒に塗られ、光を反射しないシアターココの劇空間にある漆黒の客席の方を目を凝らして覗く。
作品のクオリティの高さに対して観客が少ない。
客席はファンでびっしり埋まっていてもおかしくない。
リピーターと非リピーターがはっきり分かれる作風であるにしても。

Xではサンタのコスチュームを召した美女たちが告知をしていたが、本作はクリスマス用に間に合わせた色物の企画ではなく、作家が使命感に駆られて作った夢腐論の一連の作品のひとつであることがよくわかる。
前々回の作品、同じシアターココでの公演とテーマが近いから。
作家にとって最重要のテーマなのだと想像する。
一方で別の切り口のものも見たい。
(全てを見ているのではないのにおこがましい。)

期待される作風とテーマ選別の難しさはある。
作りたいものをひたすら作るのが基本ではある。

期待するのは思春期の心の襞を拡大したより繊細なストーリー。
地下のカフェspazio ritaで2作目「咎の柩」を見た時、後に続くのはそんな作品だと感じた。
だが、作家がその部分をやりたいのかどうかは分からない。
インタビューをした訳ではないから。
殺人よりもっと静かで激しく深いアクションはないだろうか。
多感な少女時代の残酷さを一層強調する事件や迷走の表現はないだろうか。

ここまで来ると好みの問題になる。
作家と違うフェチシズムを藤岡が持っているに過ぎない。
見たい作品はインスピレーションを持つ本人が作れ、というのが自戒を込めた反省となる。

言葉に拘りのある台本なので、役者の顔を見ず宙を向いて台詞に意識を集中する自分に気づいた。
眼の前で役者の芝居を観ることができるのだから、小劇場は大劇場より席料がずっと高くてもおかしくないとぶつぶつ呟きながら帰路につく。

投稿日/更新日:2024.12.24/2024.12.25